まずもって、このツアーの報告が3か月後になってしまったことをお詫びいたします。
47年間生きてきて、九死に一生を得た人のお話というのを聞いたのは今回が初めてでした。
帰ってきて、私のフェイスブックではいくつかの写真を掲載しましたが、
本当に女将の話が凄すぎて、私の乏しい人生経験では表現することができずにいました。
今もってその状況は同じですが、できるだけ忠実にこのツアー報告をしてみたいと思います。
【ツアーの企画にあたって】
バスツアー募集のパンフレットに書いた言葉です。
「伝えることも立派な支援です」
3.11からもうすぐ1年になろうとしています。
被災地のために何かしたい・・・でも何をしていいかわからない」
私を含めそんな方々のためのツアーを企画いたしました。
釜石市鵜住居地区にある宝来館。
震災後、建物が半壊しながらも地域住民を支え続けた宿です。
現地へ行って、あの場所に立ち、女将岩崎昭子さんの講演を聞いた時、湧き上がってくる感情・・・。
どうか周りの方々にお伝えください。
忘れないこと、誰かに伝えることも立派な支援です。 |
実は開催のきっかけはフェイスブックでした。
震災から半年が過ぎた頃、
関西に住む友人の「被災地のニュースがほとんどない」という投稿を見ました。
そして海外では
震災の報道は最初の1週間だけだったということも知り、衝撃を受けました。
それまでは、支援物資を運ぶわけでもない、
ガレキの撤去をするわけでもない、
そんな自分が何ができる?と思って悶々としてきましたが、
実は、私と同じように歯がゆい思いをしている岩手県人はたくさんいらっしゃるのではないか、
また被災地へ行きたくても遠くて行く手段のない方もたくさんいらっしゃるのではないか、
県民の一人として、被災地の今を自分の言葉で伝えたい、
同じ考えの方々のバスツアーを企画しよう!と決めたのは昨年の10月でした。
その思いを「伝えることも立派な支援です」という言葉に込めました。
【2012年2.22友引の平日開催・・・この意味はあとで知ることに 】
前日までの悪天候が嘘のように晴れた2/22
朝7時に滝沢市(旧:滝沢村)役場を出発し、盛岡駅西口経由、さらに東和インターで2人の方を乗せ、
総勢41名のバスツアーが始まりました。
途中、遠野の道の駅で休憩し、釜石市内へ入ったのは10時。
実は私に「宝来館の女将の話が素晴らしい。」と最初に教えてくださったのは、
新安比温泉静流閣の橋本英子女将です。
英子女将は釜石平田の出身。忙しい中、今回のツアーに参加してくださいました。
釜石市内に入ってからは、英子女将がガイドになり、
震災直後に入った釜石について語っていただきました。
「仮設住宅がこの奥にありますよ・・・」といわれてもピンとはこないぐらい普通の生活に見える釜石市郊外を抜け、
釜石駅を過ぎて中心部へ来たとたん、風景が一変します。
外側が残っているだけの鉄筋の建物、
跡形もない のんべい横丁、
「解体OK」の印をつけた家、
空地ほどの土地に所狭しと建つ仮設住宅・・。
国道45号線沿いの両石地区に入ると、もっともっと状況が深刻になります。
高台にあって海は見えないのに、街がすっぽりとないのです。
ところどころ土台だけが残っている様子・・・
まるでこれから造成するニュータウンのようにも見えます。
そして、ガレキです。
岩手県にあるガレキ475万5千トンのうちの一部です。
このように一カ所に山になって積まれています。
他県で一部の方に受け入れを拒否されているのはこうしたガレキなんです。
「釜石の奇跡」と呼ばれた釜石東中学校と鵜住居小学校を過ぎ、目的地宝来館が見えてきました。
【宝来館・・・慰霊の鐘と目の前の海と 】
津波はこの建物の2階まできたそうです。
ここへ来る道路が一部寸断されたため、一時期は120人もの住民の避難所になった宝来館。
その後、閉館を余儀なくされましたが、2012年の1/5に再オープンしました。
工事関係者、有識者、ボランティアを除く一般の観光客を受け入れたのは、
実はこの日の㈱のびあのツアーが震災後初めてなんだそうです。
震災後に建立された慰霊の鐘です。
この日は、本当に天気がよくて穏やかな春の海でした。
こんなに優しい海がどうして・・・という思いが込み上げてきます。
後ほど、テレビやユーチューブで女将が津波に一瞬にしてさらわれる映像を何度もみましたが、
その映像を撮影した場所が宝来館のすぐ裏手にある山です。
一度は館内にいた従業員とともに裏手の山に避難した女将ですが、
近所の方々が宝来館を目指して避難してくる様子を見て、
裏山へ誘導するために駐車場へと下りました。
津波は目の前の海ではなく、写真でいうと左側から、鵜住居川を逆流してきたそうです。
「間に合うと思ったの。
4軒となりに泊めている宝来館のバスがふわっと浮くのが見えた。
と、次の瞬間、流されました」
と講演のなかで女将は「その瞬間」を語りました。
【岩崎昭子女将・・・笑顔をたやさないその人は観音様みたいな方でした】
<東日本大震災のデーター 2012年5/9時点> |
全国での死亡者数 15858人 行方不明者 3021人 |
岩手県の死亡者数 4671人
釜石市の死亡者数 888人 |
11時~「女将の語る3.11」がスタートしました
女将の話は、なぜ今日のツアーが2/22になったかの説明からでした。
「今ね、宝来館では毎日、一周忌の法要をしているの。
何も予定ないのは友引の日だけなの。
昨日はね、8人亡くした方の一周忌。その前は一族38人の一周忌。
普通は、「あの人、亡くなったずな」っていうでしょ?でもこの辺では逆。
「あの人、生きでらったな」っていうの。
釜石で亡くなった人、888人中、約600人が両石と鵜住居の人たちなの。
でもね隣の大槌はもっと大変。1300人もの方が亡くなっているの」
それから女将の話は亡くなった従業員の方の話になりました。
宝来館でも、板長はじめ、3人の従業員が亡くなったそうです。
ひとりは非番で休みだった方。宝来館が大好きなスタッフの方で、たまたま体調が悪くて家にいたそうです。
そして彼女の遺体は
「避難所としての宝来館が今日で解散するという3/26、遺体があがったの。
その子は宝来館が大好きだったから、ここ解散する前に見つけてほしかったんだね」
そして、板長ともう一人の従業員の方は
一度は裏山へ避難したあと、「家族が心配」で
あの50人以上が亡くなった防災センターへ向かって亡くなったそうです。
それから女将は、遺体安置所で経験した不思議な体験について語りました。
一か月もたつと、遺体というのは黒くただの木のような色になるそうで、顔も何も見分けがつかないのだそうです。
でも、ある奥さんがそのご遺体の前に来た時、とっさに「お父さん!」と。
そのとたん、さっきまで黒かった遺体がすっと人のお顔に戻った時のこと。
また、16才で亡くなった高校生は、本人のものではないジャージを着せられていたそうですが、それでも「その子のお母さんは自分の子だってわかった」という話。
お母さんを亡くした5才の子は母の死をやがて静かに受け入れ、
亡くなったお母さんのことを「津波よりも強い人を知ってるよ。それはママだよ」と話したこと。
そして、「なぜもう一度、宝来館を同じ場所に再建したのか」について話してくれました。
【宝来館のなかにある海と一緒に生きてみよう。逃げないでここにいる。それが私の使命です】
「使命」という言葉のほかに、
「三陸で生きる覚悟」
「故郷で生きるDNA」 という言葉で話していました。
再建しようと決意した理由はいくつかあるそうですが、ひとつは「釜石の奇跡と呼ばれた子供たちのこと」だそうで
「あの子たちはきっと将来、日本のため、世界のために役に立つ人間になる。その子たちが故郷へ帰りたいと思ったときのために、私はここにいる」
そして、これは一瞬の判断と偶然が生死を分けた経験をした方の言葉だと思いますが
「自分たちはたまたま生きている。だけど死んだ人だって生きてるの。私たちと一緒に魂が生きてるの」
再オープンしたときに作ったという宝来館のパンフレットを頂いてきましたが
それには「みんなでやっぺし!」
「宝来館女将の楽しい復興構想=どんぐりウミネコ村」 というタイトルが記載されています。
しかし、講演の最後にはこんな現実も話してくださいました。
「今、私は授業員に震災前には1人でやっていた仕事を必ず2人でやらせています。
一度、空洞になった頭と体はバラバラで、普通のことをするのに訓練が必要なんです」
そして「あれだけの経験をした鵜住居の人たちは、ある意味では独立国。内陸の人たちと同じ感覚に戻ることはない」とも。
講演終了後は
「被災後に漁師がはじめて採ったワカメなのよ。これを今日みなさんにお出しできることが本当に嬉しい」
というワカメのほか、心づくしのお膳を頂きました。
お給仕をしてくださった従業員の方々は、ごくごく普通に接客しているように見えましたが
女将いわく「訓練が必要で」
震災後、初めての観光ツアー客だった私たちを精一杯もてなしてくださったのだと思います。
みのもんたさんに命名されたという「宝来焼き」を頂き、
その後は女将と記念撮影をしながら、
宝来館を後にします。
参加者ひとりひとりと握手しながら見送りです。
こちらは宝来館の昭子女将と新安比温泉静流閣の英子女将。
互いに釜石出身で、女将という同じ立場だからこそ、手を握るだけでわかりあえるものがあります。
そして今回のツアー参加者で最年長の82才のおばあちゃんと女将です。
おばあちゃんはひとこと、女将の手を握って 「念願が叶いました」
今回のツアーに参加された方々は本当にやさしい方々ばかりで
こちらは重茂さんという男性が作ってきてくれた手づくりの「復興祈願」
現在は宝来館のフロントに飾ってあります。
(重茂さんは私にも㈱のびあと書いた龍を作ってくださいました。会社内に飾ってお守りにしています)
宝来館にお別れし
バスは途中、大槌町内を通り、山田へ。そのまま45号線を北上しました。
火災もあった大槌町は、かろうじて役場跡がわかるだけで、どこがどうだったのかわからなくなっていましたが、
山田町の海は養殖が復活しているように見えました。
この穏やかな海だけを見ていると何も変わっていないようなのに、振り返るとそこにあったはずの街はない。
仮設の病院、仮設の店舗、仮設の庁舎・・・・復興はまだまだこれからです。
総合広告社の菅野社長から参加者全員がいただいたDVD 「岩手は半歩歩きだす」を上映しながら、宮古経由で盛岡へ。
106号線から見た夕陽です。
宝来館のおかみは
「 震災後、残ったものは芸術・文化・人とのつながり」と話していました。
盛岡から参加したご夫婦は
「やはり内陸部の我々が伝えていかないとね。のびあさん、また第2弾やってね」と声をかけていただきました。
82才の最年長のおばあちゃんは、昭子女将と同じ言葉で私に深々と頭を下げてくださいました。
「念願が叶いました」
この復興応援バスツアーを企画して本当によかったと思います。
こうして文章にするのに3か月もかかってしまいましたが、
昭子女将の講演を聞いて気づいたこと・・・。
それは、女将の「釜石の奇跡の子供たちのために」という言葉。
それを聞いて、「そうか、復興10年の主役は私たち世代ではなく、今の小学生、中学生の子供たちなんだ」と初めて気づきました。
そうだとしたら、「復興10年を担う子供たち」にも伝えいかなくてはと思いました。
県外の修学旅行生で校長先生の英断であえて宮古市田老地区を訪問した学校がありましたが、
内陸の子供たちにも三陸の今と今後を見せてあげたいと思います。
どんな形になるか、わかりませんが、第2弾復興応援バスツアーも必ず企画します。
41名の参加者のみなさま、本当にありがとうございました。
そして、新安比温泉の橋本英子女将
この復興応援バスツアーを共催してくださった旅行社、岩手県教互センターの佐々木部長
DVD協賛していただいた他にツアー告知にご協力頂いた総合広告社さま
そして人生観を変えるようなすばらしい講演をしてくださった宝来館の岩崎昭子女将とスタッフのみなさま
ありがとうございました。