11年目の福島原発20キロ圏内視察ツアー④木村紀夫さん講演~2022年11/5~6実施

浪江町で昼食後、向かったのは震災遺構となっている請戸小学校跡です。

 

5年前には津波で被災した家がまだ数軒放置され、
場所によってはガレキも高く積まれたままだった請戸地区。
その時、遠くにポツンと見えた請戸小学校は

2021年10月に福島県で初の震災遺構として一般公開されました。

 

震災時、93名の児童と教職員は1.5キロ離れた大平山へ避難し、
全員が無事に助かることが出来ました。

それが時系列でわかるように展示されています。

 

よく見ると7キロ先の福島第一原発がうっすらと見えます。

 

請戸地区はその後、災害危険区域に指定されたため、現在も請戸橋より西側には

家を建てることはできません。

93名が避難したという大平山を車窓に見ながら、
ツアー最後のスケジュール

大熊未来塾の代表 木村紀夫さんの講演会場へと向かいます。

 

なんとご講演いただく木村さんの方が先について準備完了

という大失態をしつつも
笑顔で迎えてくださる木村さん。

 

先日、ZOOMで打ち合わせはしましたが、実際にお会いするのは
実は私も初めてです。

 

木村さんのご自宅は前日見てきた中間貯蔵施設内にあります。
あの日、津波でお父様、奥様、そして小学校1年生だった次女、汐凪ちゃんを失います。
翌日、跡形もなくなった自宅付近を捜索していると区長さんが来て「全町避難せよ」と。

その後、奥様とお父さんの遺体は見つかるのですが、汐凪ちゃんの遺体は見つかりません。

当初は年に3回、1回につき2時間程度の時間内にしか立ち入りが許されず、

たったひとりで捜索していた木村さん。

2013年頃からボランティアの方々に入ってもらって一緒に捜索をするものの
以前として遺骨は見つかりません。

その後も避難先の長野県白馬村から9時間かけて大熊へ通い、捜索します。

 

2016年、環境省に依頼し、重機をいれての捜索したところ、汐凪ちゃんのマフラーと
首の骨が見つかります。

 

しかし、骨が見つかったことで

「津波で亡くなったのではなく、

ここに置き去りにしたことで亡くなったのではないか」

という新たな苦悩を抱えることになるのです。

 

実はオンラインの打ち合わせの時に私は
「講演を依頼しておいて聞くのもなんですが、

こうして話すことが辛くなることはありませんか?」とお聞きしています。

木村さんは

「正直、苦しくなることはあります。でも話すことで汐凪が一緒に生きていると感じる」と。

 

その後、木村さんは2019年に長野からいわき市へ住まいをうつし、

大熊未来塾を作り、語り部としての伝承活動をスタートさせます。

 

ひとつは防災教育、

そしてもうひとつは、中間貯蔵施設内にある汐凪ちゃんが通っていた

小学校や児童館などをアーカイブ施設として残せないかということ。
「俺がこうして話すより、あの場所を、教室を見てもらったほうが
よほど伝わるものがあるんじゃないかと思うんですよね」

 

そして

「自分たちの悲劇をただの悲劇として終わらせない。

1000年先まで語り継ぐ」

 

そのために大熊未来塾を今年、法人化されています。

 

最後に木村さんが話したのは

「進む復興に消えていく声」

 

2日間のツアーで見てきた景色はまさにこのひとことに集約されるような気がしました。

 

5年前に
「津波で流され、何もなくなったのではなく、
建物があるのに人がいない」

その風景に衝撃を受けた私。

 

その後、除染された土壌は中間貯蔵施設に運ばれ、
もとの街並みはどんどんと解体され、

特定復興再生拠点として生まれ変わっていきます。

県外に住み、震災前の街を知らない私でも

それは希望なのだとわかっているにも関わらず、

なんだか複雑な思いに駆られます。

 

この複雑な気持ちこそ、福島原発20キロ圏内の景色なのかもしれません。

 

ツアーにご参加いただいた皆様、
福島で迎えてくださった皆様、本当にありがとうございました。
現地ガイドさんはこの日に向けて約ひと月も準備してくださいましたし、
流行り病にかからないよう、健康管理していただきました。
言葉では言い表せないほどの感謝です。

「時が止まった街」と形容されてきたこの地ですが

旧街の解体を含め、街は急速に動いていました。

 

▼講演のあとに記念写真を撮りました!

カテゴリー:復興応援バスツアー